JLPT N1 - MOCK1 READING
日本[にほん]の美意識[びいしき]を語[かた]る上[うえ]で欠[か]かせない概念[がいねん]の一[ひと]つに「もののあはれ」がある。この言葉[ことば]は、しばしば「物[もの]の哀[あわ]れ」と漢字[かんじ]で表記[ひょうき]されるため、単[たん]なる悲[かな]しみや哀愁[あいしゅう]の情[じょう]と誤解[ごかい]されがちである。しかし、その本質[ほんしつ]はより深[ふか]く、複雑[ふくざつ]な情感[じょうかん]を内包[ないほう]している。本居宣長[もとおりのりなが]が『源氏物語[げんじものがたり]』の読解[どっかい]を通[つう]じて見出[みいだ]したこの概念[がいねん]は、移[うつ]ろいゆく万物[ばんぶつ]に対[たい]して心[こころ]動[うご]かされる、しみじみとした感動[かんどう]を指[さ]す。 「もののあはれ」の核心[かくしん]は、無常観[むじょうかん]にある。桜[さくら]の花[はな]が満開[まんかい]の美[うつく]しさを見[み]せたかと思[おも]えば、はかなく散[ち]っていく。夏[なつ]の夜[よ]を彩[いろど]った蛍[ほたる]の光[ひかり]も、やがて消[き]えゆく。こうした有限[ゆうげん]の美[び]、永遠[えいえん]ではないからこそ際立[きわだ]つ輝[かがや]きに触[ふ]れたとき、人[ひと]の心[こころ]に去来[きょらい]する愛[いと]おしさと寂[さび]しさが入[い]り混[ま]じった感情[かんじょう]こそが「もののあはれ」である。それは、対象[たいしょう]への深[ふか]い共感[きょうかん]と、流転[るてん]する自然[しぜん]の摂理[せつり]に対[たい]する静[しず]かな諦念[ていねん]が一体[いったい]となった、きわめて日本的[にほんてき]な感受性[かんじゅせい]と言[い]えるだろう。 西洋的[せいようてき]な美[び]の概念[がいねん]が、しばしば永続性[えいぞくせい]や完全性[かんぜんせい]、シンメトリーといった普遍的[ふへんてき]な理想[りそう]に価値[かち]を見出[みいだ]すのとは対照的[たいしょうてき]である。「もののあはれ」は、不完全[ふかんぜん]さや儚[はかな]さの中[なか]にこそ、心[こころ]を打[う]つ真実[しんじつ]の美[び]が存在[そんざい]すると捉[とら]える。それは、失[うしな]われることへの悲嘆[ひたん]ではなく、むしろその運命[うんめい]を受[う]け入[い]れた上[うえ]で、今[いま]この瞬間[しゅんかん]の輝[かがや]きを慈[いつく]しむという、より肯定的[こうていてき]で成熟[せいじゅく]した精神[せいしん]の働[はたら]きなのである。この美意識[びいしき]は、文学[ぶんがく]や美術[びじゅつ]、さらには人々[ひとびと]の日常生活[にちじょうせいかつ]における季節[きせつ]の移[うつ]ろいへの繊細[せんさい]なまなざしに至[いた]るまで、日本文化[にほんぶんか]の根底[こんてい]に深[ふか]く流[なが]れている。

筆者[ひっしゃ]によると、「もののあはれ」という概念[がいねん]の根幹[こんかん]をなすものは何[なに]か。

💡 詳細解説

本文[ほんぶん]では、「もののあはれ」を「永遠[えいえん]ではないからこそ際立[きわだ]つ輝[かがや]き」に触[ふ]れたときの「しみじみとした感動[かんどう]」と説明[せつめい]している。第[だい]3段落[だんらく]では、それが「失[うしな]われることへの悲嘆[ひたん]ではなく」「今[いま]この瞬間[しゅんかん]の輝[かがやき]を慈[いつく]しむ」肯定的[こうていてき]な精神[せいしん]の働[はたら]きであると補足[ほそく]している。したがって、正解[せいかい]の選択肢[せんたくし]は、この核心的[かくしんてき]な考[かんが]えを正確[せいかく]に要約[ようやく]している。誤[あやま]りの選択肢[せんたくし]Aは、本文[ほんぶん]が明確[めいかく]に否定[ひてい]している「悲嘆[ひたん]」という否定的[ひていてき]な側面[そくめん]のみを強調[きょうちょう]している。選択肢[せんたくし]Bは、筆者[ひっしゃ]が「もののあはれ」と対比[たいひ]して挙[あ]げた西洋的[せいようてき]な美[び]の概念[がいねん]を説明[せつめい]している。選択肢[せんたくし]Cは「抵抗[ていこう]」という言葉[ことば]を使[つか]っているが、本文[ほんぶん]ではむしろ逆[ぎゃく]の「静[しず]かな諦念[ていねん]」と述[の]べられているため、誤[あやま]りである。